2003年11月6日木曜日

電動サンダー

こないだ1000円でヤフオク落札した三味線のバチにもサンダーかけた。
かなり古いもの。
バチの先端が丸まっているし
手汗のあともドス黒かったけど、新品同様に!

そして現在製作中の、メタロフォンの共鳴箱。

▼一番上の写真は、10/30の日記のもの。
ノコギリで大雑把に角をおとしたもの。

けどサンダーであっという間にほら2枚目の写真。



で、メタロフォン完成!


……のつもりだったのに、着色剤を水で薄めて塗ってみたくなった。

いい感じの色になった。満足。

2003年11月4日火曜日

学園祭をはしご




ICUとルーテル学院の両方、学園祭ハシゴしてきた。
ICU祭では毎年でかーいパイプオルガンのコンサートへ行く。

メタロフォンの共鳴箱、明日サンダーかけて終了。


2002年9月1日日曜日

反射板レインボー

自転車の反射板からのレインボー(^o^)/


(撮って出し)



2001年12月23日日曜日

■2001年12月23日(日)

『人間ドキュメント』(NHK:深夜:再放送)で
「光れ!泥だんご」という企画をしていた。

泥だんごを毎日粉砂でみがいてピカピカにするのである。
22年前の泥ダンゴを木箱に入れて持っている人もいた。

いまだ変わらぬその輝きに驚く。


そいや2ヶ月くらいまえ『タモリ倶楽部』(テレ朝:深夜)でも
この泥ダンゴをつくっていた。

顔が映り込むほど光らせていた。


小学生の時、あたいも泥だんごづくりに熱中したことがある。
さすって光らせるという行為は
子ども心をときめかせるものなのだ。


あたいが小学生の時、妹と熱中していた「リンゴ磨き」。

リンゴ箱からひとつだけ選んで、毎日タオルで磨く。

くぼみのところも綿棒なんか使ったりして念入りにキレイにキレイに。
1ヶ月ほど磨き続け、どちらともなくやっと「そろそろ食べよっか」となるのだ。


小学生の時、異常な猛暑の中、近所のアスファルトの一部がドロドロに溶けた。
それを棒ですくいとって
すぐそばの廃工場の塀にどっちゃり塗りたくり、
その日以後、学校の行き帰りのたびにソレをこすって光らせたりもした。


小学生の時、歯が抜けたときには、
ちょびっと残っている歯肉を楊枝でこそげ落とし、日々磨いたものだ。

すごくキレイになったのでガチャガチャのカプセルに入れていつも持っていた。
友達に見せるとみんなすごくうらやましがった。

やっぱりさすって光らせるという行為は、子ども心をときめかせるのだ。


2001年12月20日木曜日

■2001年12月20日(木)

テレビがつまんないので
『探偵ナイトスクープ』(テレ朝:深夜)を撮ったビデオを見た。
「爆発タマゴ」(藤本くん)の回だ。

電子レンジでタマゴを加熱し、殻をむき、
一口食べたとたんに炸裂するタマゴを作るのである。

これはその企画もさることながら
ミラクルの連発により珠玉の作品となっている。


その後、これをパクった企画は『投稿特報王国!』(日テレ)や『発明将軍ダウンタウン』(日テレ)でも取り上げていたが、それらはえてして予定調和。
とにかくナイトスクープの「爆発タマゴ」はおもしろいのだ。


タマゴで思い出す。
小学4年生の夏休みの実験であたいは「酢タマゴ」に挑戦した。
ミツカンの『特濃酢』という、特別に匂いのきつい酢に生卵をどっぷりと漬けて3週間。
最初に、殻に落書した油性マジックが消え、殻が徐々に透けだし、しまいには固体化した黄味のみが残るという実験である。

タマゴを漬けさえすれば、後は「ちょっと溶けた」「昨日より溶けた」という観察日記をつければいいラクな実験である。
毎日ながめてばかりいた。


季節は夏。
机の上に置いたブツは、酢のおかげで腐りはしないもののタマゴエキスの溶け出したキョーレツな臭いでコバエを呼び寄せ、それらはぐるぐる渦を巻いては浸かり死んでいった。

卵の殻の様子とともに、溺れ死んだコバエの数を数えることも実験に加えた。
当時数々のへんな実験に溺れていたあたい、親も放任していた。


しかるべく、黄味だけが残った。
あたいは黄味をていねいにガーゼに包んで2学期の学校へ持っていった。

教室の後ろにはそれぞれの夏休みの宿題が並べられた。
当然あたいの酢タマゴもそこに置いた。

ガーゼの上に鎮座した黄金の酢タマゴ。
触るとゆっくりとタルタルに動いてまるでグミのよう。

こんな異質な物体を自らの手で作りだしたなんて
自分で自分にうっとりしていたあたい。

きっとみんな驚くだろうな、先生早く気づいてくれないかな、とちょっと鼻高々だったと思う。

しかし事件は起った!!

クラスにいた知的障害を持つ同級生がそれをぱっくり食いやがったのだ。


あぁ、あたいの酢タマゴっ!!

叱られると思ったのか、その子はトイレに逃げ込み、個室の中で酢タマゴをゲロった。

私が3週間うっとりとながめ続けた黄金の酢タマゴは
おしみなくゲロとしてトイレに流されていったのだった。




2001年11月24日土曜日

■2001年11月24日(土)

4月に電撃婚約を発表した黛ジュンが電撃破局を発表した。

夕刊フジによると破局の原因は
婚約相手の男が故意にしているイタコに
「黛ジュンと結婚したら苦労する」と言われたからだそうだ。


ひえぇ。占い信じて破局だなんて信じらんない!


しかもイタコって……


イタコで思い出した。
4年前、東北一周旅行をしたときに青森県の恐山へ寄ったときのこと。

恐山入口には”霊場アイス”と書かれたのぼりが立ち、
ふつーの棒バニラアイスが1本150円で、堂々と霊感商法で売られていたっけ。

恐山自体はおもしろく、荒涼とした景色を眺めながら濃厚な硫黄の臭いをかいでいると本当にあの世にトリップしそうに気になってくる。
水子地蔵と一緒に記念写真を撮っている外国人もいた。

あたいは、きっとイタコがあちこちで交霊してて見世物状態なんだろと思っていたが、意外にもイタコは一匹もいない。
イタコのシーズンは一週間ほど前に終わったとのことだった。無念。

ってか、イタコのシーズンって……(笑)


そういえば『ここがヘンだよ日本人』(TBS:木夜)にイタコが登場したことがあった。
調子に乗った一人のイタコが、ダイアナ妃を呼んで来てしまった。

「オォ。ワタシ クルシイ。
イマ、トテモ カナシイネ。
ヤリタイコト タクサン アッタ」

なんて茶番を演じたもんだから
疑った外国人が「2人の息子の名前言ってみて」と質問。

はたしてイタコは「ウ、ウィリアム……」しか答えられなかったのである。


イタコって霊媒士だよね?
過去の人の口承人でしょ?
なんでその人が未来を占えるのさ?
んで、なんでそれを信じるのさ?

52歳にもなってイタコ信じてる男なんて、こっちから別れてやんなよ黛ジュン。


ところで黛ジュンって誰なんだ?


2001年9月22日土曜日

■2001年9月22日(土)

高校2年の時、家庭教師のバイトをした。
知人の紹介の中学2年生男児。

こいつは曲者だった。
14歳なのに2桁の足し算、引き算さえできないのだ。

高校はもうぜったいに行けないから
せめて基礎学力ぐらいは付けさせたいという、親心らしい。


彼は下っ端ヤンキーだった。
背が低く、ボウズ頭をオキシドールで脱色。
ペンケースには、当時のヤンキー呪文「BOΦWY」の文字。
全身たばこ臭かったし、根性ヤキもいっぱいあった。

シャーペンに縫い針を仕込んで腕を彫っていたし
前歯の間をキリで穴をあけ、そこからツバをペッペペッペしていた。


教える内容はほとんど小学2、3年生の内容。
だが、覚える気のない人に教えるのは至難のワザだ。

掛け算九九も5の段くらいまではどうにかできたが
『5ダースの苗=いくつの苗があるでしょう?』なんてのは、やっぱり難問だ。

なぜならばまずダースという単位が解らないからだ。


しかし、しだいに「郵便局」なんてのも読めるようになってきたし
ローマ字も覚えてきた。

あたいは教えることが楽しくなってきて
本屋で小学生の参考書なんか見たりもするようになった。


しかし彼には盗癖があった。
勉強はうちで教えていたが、あたいの部屋に張ってあった大きなポスターを盗まれた時はさすがに頭にきた。

もうすこしバレないものを狙いなよ!

盗むものまでバカだな!


「今まで気が付かないふりしてたけど
ファミコンのカセットも私の下敷きも全部返してよね」

彼はあやまりもせず、帰って行った。
それ以来、なんとなく来たり来なかったりしているうちに
親から電話があって「もうやめたい」と言われた。


それから1年後。
あたいは高校を卒業して大学に入学するまでの間、近所のケーキ屋でバイトしていた。
そこにあのヤンキーが母親と買い物に来た。

久しぶりに会った彼は、相変わらずちびっこで、相変わらずまゆ毛を鋭く剃っていた。
無事中学校を卒業し、ちかくのスーパーに就職が決まったという。
今日はそのお祝いのケーキを買いに来たそうだ。

あたいはもうすぐ実家を出て、遠く一人暮らしを始めることを伝えた。
小学校の教諭になろうと、教育学部に進学することが決まっていたけど伝えなかった。


数日後、彼はポスターを持ってケーキ屋にきた。四つ折りだったけど。
ポスターに折り目つけるだなんてやっぱりバカだ。

なにはともあれ、もうとっくに好きでもなくなったそのタレントのポスターは返ってきた。

ネコの置物も、肥後ナイフも、ソーイングセットも帰って来なかったけど
一区切りついたかんじがしてちょっと嬉しかった。


2001年8月26日日曜日

■2001年8月26日(日)

徳光和夫が入院して、『速報!歌の大辞テン』(日テレ:水夜)の司会が福澤朗になった。

福澤さんはこれまでも、福留さんや古館さんの後釜として重宝がられていたし、一時期のコバエのようなせわしなさも落ち着き、5分ニュース番組でもそつなく原稿を読むようになった。


しかし、同じく徳さんが空けた穴『めっけMON!』(TBS:火夜)の司会をなんと故東八郎の息子、東 貴博 (Take2)がやっているではないか?
なんという大バッテキだろう。

この番組は、一流といわれる食材や道具を紹介し、その値段を当てるというクイズ番組だ。
興味のある内容なので試しに見てみたのだが、司会者なのに回答者をいじりすぎて空回りしていた。
ゴールデンでの初しきり役に舞い上がったのかは不明だが
客観的にみて司会役といくよりガヤガヤとしている印象だった。



2001年7月6日金曜日

■2001年7月6日(金)

『峰竜太のホンの昼メシ前!』(日テレ:午前)で
『ごきぶりホイホイ』の誕生秘話を取り上げていた。
いつもなら決して画面を見ることはない内容の番組だったが
目をつぶって、ラジオのように聞いてみた。

それは、某製薬会社社員の西村さんが
ゴキブリに悩む妻から
「あなたの会社でなんとかならないの?」といわれたことに端を発する。


まず、当時主流だった他社のゴキ捕獲器とはちがう
使い捨ての捕獲器(ゴキホイ)を開発する為に
西村さんはある研究機関からゴキを500匹譲り受けた。


だがしかし、人工的に孵化され飼い慣らされたゴキではなく
もっとエネルギッシュな、野生のゴキが欲しい!!
 西村さんは一年に渡り、新聞の三行広告にこう掲載した。

「ゴキブリ一匹 10円で買います ●●製薬」

立ち食いうどんが1杯60円の時代。
地元の貧乏大学生にゴキ狩りブームがわき
集められた野生種は3000匹。

これでやっと思う存分研究できた西村さん。


アメリカのネズミ捕りにヒントを得た粘着式シート。
入口の上り坂(勾配30°は特許有効中)により
後進できないゴキは前に進むしかなくポテッとシートの上に落ちるっちゅう仕組みだ。

苦労したけどめでたし、めでたし、といった様な内容の番組だった。


当時の企業は
どの職種も大もうけ狙いというよりは
「国民により必要とされるもの」を念頭に日々奮闘していたのだろう。

さして必要でもない使い捨て文化を生み出す
現代の流行企業の姿勢とはやや異なるな。


2001年7月4日水曜日

■2001年7月4日(水)

大学を卒業したらどうしようか悩んだ。

父は「コンピュータができなくてどうする。地元のパソコン専門学校へ行け」というし、
母は「一緒に陶芸教室いこうよ。車も買ってあげる」と誘った。

言っておくがうちの実家はぜんぜん金持ちではない。
が、とにかく実家に帰って来て欲しかったようだ。


あたいが高校を卒業したときには追い出すように勝手にアパートを決めてきて一人暮らしさせたのに、いまさら帰ってこいと言ったって、
楽しい一人暮らしを体験したあとに実家に帰ろうなどとは思わなかった。

とりあえず家賃補助や寮のある会社を探さねば……


一生結婚しないつもりだったあたいは
女性管理職のいる会社を就職先の第一条件にあげた。

「高給料」ではなく「永く勤められそうな会社」を探し
女性管理職がいて堅そうな会社名の某社にロックオン。
制服は白衣=一年中エアコンが効いた職場の匂いがする♪


ところが試験の当日、原因不明の熱が下がらないまま
田舎から電車でノコノコと一時間も遅刻。


しかし世は売手市場。
口からでまかせの趣味と特技で面接をのりきり
実力ではぜったいに受からなそうな理数系のその会社に就職することができた。


配属されたのはCAD営業部。
すでにOLだった友達のウケウリで「CADをやりたい」とテキトーに言った入社動機が通っちゃった。

あ~あ。事務職で気楽なOLしたかったのに
いまさら新しいこと勉強するなんていやだな。
最初からうんざり気味で始まったOL生活・・・・・・


その部署には8人いた。
事務の女性はあたいと同郷のしかも同じ学校の先輩だった。
残りは全員熊本出身という、とても片寄った人事配属。


おかげでせっかく上京したのに、あか抜けるどころか熊本弁になってしまった。

「そぎゃんこつなかよ」(そんなことないよ)
「せからしかね~」(せわしないね)
「まうごつできゃぁ」(超でかい)などと
飛び交う意味不明のネイティブ熊本弁に慣れるまでは
とんでもないところに来てしまったと心底思った。


しかしそこは
社会性などまったくなかった学生気分のあたいにいろんなことを教えくれたのだった。

まず事務職を尊敬するようになった。
ドラマでのヒマOLのイメージで、事務職はラクそうと思い込んでいたが
とにかくあれこれと人が気がつかないことを率先してやっている。
当初は鈍感なのをいいことにラクを決め込んでいたあたいだが
これに準じて少しは気を廻すようになった。


それと先輩達は
「会社の人の悪口言っちゃだめだよ。一度言い出すともうどんどん嫌になっちゃうからね」と諭した。

事実、みんな議論好きで、言いたい放題だったが腹黒くはなかった。
会社全体でも、自分に気をつかってくれないと機嫌を損ねるようなお局はいなかった。


いい人に囲まれてあたいもちょっぴり性悪を改善。
他人を一個人として考えられるようになったあげく
誰がなにをしようと以前よりも悪く思わなくなれたと思う。
てか、気にならなくなった。これは大収穫。


上司もほとんどがいい人だった。
基本的に子煩悩な上司は、部下を上手に使える。

それにしてもやっぱりOLは楽しかった。
会員制のクラブやしゃぶしゃぶやサロンや
ゲイバーやカニやフグなんかにも連れていってもらったし
朝7時に築地に集合してみんなでお寿司食べに行ったりしたし。


テニスしたり、スキー行ったり、仮装大会したり。
ホントは”みんなで”っていうのはすごくいやなのだけど今思うと楽しかったなぁ。


などと、これを読むあなたには完全に関係ない話だが
こうして文章にしてみると、思ってもみなかったほど懐かしくなってきた。

こんなにも自分に合った会社を何故辞めたのかと時々思う。
いまでもたまに元の上司に逢ったり、バイトの話を頂いたりして、ほんと幸せだな。

しかし、辞めるからにはやはりいろいろとあった。
最初のきっかけは、そう、そのころの同じ部署にストーカーがいたからだ。
この話は別のおはなし。


今明かされる真実!
あたいが会社を辞めた理由は?
近日執筆!! 請うご期待 (99%誰も興味ないね)